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なぜ濃尾平野に戦国武将が多いのか?

徳川家康が「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」を授かったという岡崎平野の大樹寺とワタクシ

いきなり、すみません。

東京に住んでいた時、街の作りが名古屋と似てるのは江戸期の徳川家の影響なのだろうとは、よく感じていました。

そこで、思ったのが、私の生まれ育った愛知県の北西部を中心とした場所から、

家康が、何故、江戸を干拓できて、尾張と美濃の人材を多く登用し、全国に配置したのかということです。

その前に関東を領地にしていた北条氏や、坂東の武士たちは、何故、干拓しなかったのか?

今でも、上野の方には、50センチも掘ると貝塚が出てきてしまう場所もあるとかで、数百年前まで干潟のような状態だった場所が多かったようです。

北条氏だって、干拓したら日本一広い平野で悠々自適な米作りをして、国を豊かにできたかもしれないのに何故?

関東平野(面積約1万7000平方キロメートル)は、四国がスッポリ入るくらい広いのですが、私の感覚んだと街中でも、段丘などで結構な起伏を感じるポイントが多く存在します。

濃尾平野(面積約1800平方キロメートル)は、石狩平野、十勝平野、越後平野に次ぐ第5位の広さがあります。

ちなみに、大阪平野は第6位なので、人口と平地の広さは関係ないようです。

そして、家康自身は、濃尾平野の隣にある現在の愛知県岡崎市の岡崎平野(面積約700平方キロメートル)の出身です。岡崎へ行ってみるとわかるのですが、山が近く、関東に慣れていると圧迫感があります。

全国制覇をした!だったら、三河の岡崎で昔から仕えてくれてくれていた家からの人材を全国に配置すればよかったのにと思います。家臣団なら、なんで何代も前から仕えてるウチの子じゃないんだよ!と陳情したくなります。えぇ、私ならしています。

もちろん、要所になる藩には徳川譜代の大名がないわけではありませんが、石高が少ない。

永井直勝の永井家を例にとってみても、松の廊下の少し前に似たような事件を増上寺で起こされ、財産など没収という改易にされ再興し1万石からリスタートしていますが、江戸期を通して、ずっと10万石程度だったようです。(史料求む)

軍事的要所が変わるたびに、守りを固めたいのか、たびたび縁もゆかりもない場所に転勤させられ、引越し貧乏だったのではないかと思われます。

石(こく)というのは、小和田哲男先生監修の「戦国 経済の作法(株式会社G.B社)」によると、当時の米の単位で、1石が、約150キログラムで約180リットルほど。

江戸に幕府が置かれる40年くらい前の1567年に1429文(当時の通貨単位:もん)。現在の価格で11万4000円程度だったそうです。

2リットルのペットボトル、90本くらいの生米が、12万円しないくらい。

これは、パンなどがない当時、あの炊飯器のカップに、1日3杯、大体3合を1年で大人が消費する1095合を基準にした単位だそうです。

へぇ、お米って一年間、毎日毎食、必ず食べてると180kgにもなるんですねぇー。現代のお相撲さん一人分くらいの重さかぁー。

1石(約180kg)=大人一年分の消費量 1000合=1石

あのテレビや映画で、よく見かける米俵は、1俵という単位で1つ約60kgだそうです。

あれが、3つで大人1年分のお米消費量ということになります。

100万石あるなら、100万人のお米が一年分という計算になります。

岡崎城に、再現したものがあったので持ってみましたが、60kgでも自分の体重より重く全く持ち上がりませんでした。

高知の土佐に山内一豊、阿波の徳島に蜂須賀正勝(小六)、熊本に加藤清正、100万石の加賀の前田利家などは、濃尾平野の生まれです。

でも、土佐、阿波、熊本、加賀のイメージが強いですね。

豊臣秀吉も濃尾平野の生まれで、水害は幼い頃から当たり前だったことと思います。

私の住んだいた地域でも、つい20年前に小舟で避難なんて水害もありました。

秀吉は、賤ヶ岳以外でも山城を作ったり、小田原以外でも一夜城を作ったり、備中高松以外でも堤を作って土地を水没させてみたり、とにかく、そこかしこで土木工事を多くしました。

河川の水の動きを見極め、操る能力、土嚢を作ったり、その土嚢を短期間で崩れないよう積んだりできる、この技術!この技術が、大阪にも、江戸にも、他の土地にも必要だったのではないか!と!

木曽川と飛騨川、長良川、揖斐川の上流域で雨が降ると、下流に雨の水が集まって晴れていても水害が起こるので、地元の農民にも治水に長けた集団があったかもしれません。

家康は、10才まで、信長の濃尾平野にある清洲城に人質として居たので、その土木に関するノウハウを持った人たちを知っていたのではないか?とも考えられます。

もしかしたら、信長も、秀吉も、家康も、城作り以外の河川工事の職人集団を雇っていたのではないでしょうか?

これは、三河武士や、他の地域の人たちには難しいことだったのではないか?

そこで、お米の収穫は多めで広さもあるけど、河川と水害が多くあり、まだまだ田畑への開墾の余地があり、河川工事で治水が必要な場所には濃尾平野での土木工事を、よくわかっている武将を就かせたのではないかと考えるようになったので、いつか監修の先生にみてもらいつつ漫画の連載をして、にできたらと思い調べてみようと思いました。

と、思わなかったら観光を普通に楽しんでしまうので、とりあえず目標は、書籍出版!!

まずは、手始めに濃尾の城や街に行ってみようと思いったた昨年から取材を開始しました。

次回から、お城をメインに取材した記事を描いて行こうと思います。

え?城!?なんで??

気になった出版社などの編集部の方は、是非、お気軽にご連絡いただいたいです!

何卒よろしくお願いいたします!!!!