Illustrator Kumiko Nagai Official

下津城(跡)愛知県稲沢市

下津城跡の石碑(愛知県稲沢市下津町)

はい!聞いたこともない!「おりづ」城。

下津とかいて、オリズと読みます!曇ってると霧が出ます。

「津」という字は、物や人が行き交うような川の渡し舟など停泊させる施設があった場所につけられていることが多いです。

「川」という字の崩字が、ひらがなの「つ」なので、この字からきているのかなと思ったりもします。

ここから16kmくらいの三重県の方角にある津島市は、信長時代にも重要な川湊がありました。津島神社として残っています。

さて、この下津は、1500年代初め頃、もともと守護大名の斯波氏が住んでいた場所だったところを、織田信長のひいおじいさん、お爺さんあたりが、なんやかんやして織田家の館城にしたと言われています。

この当時は、石垣を積んだ城は、まだ発明されていなかったので、板葺き平家の大きな建物があったと思われます。

今は、小学校の前に石碑が立っているだけですが、小学校の横には、首塚があります。

私が、子供の頃は、小山になっていて、樹木が茂っていて、昼間でも薄暗いので怖い感じの場所でしたが、今はコンパクトに整備されて、恐怖を感じることもありません。助かりました。

現在、この辺りは、民家になっているのですが、この首塚の近くに青木川という清洲城のある五条川に繋がるが川が流れています。

ここから、すぐに五条川に合流して、下津から下流5km先くらいの場所に清洲があります。

この下津近辺を歩いてみると、織田家が治めていた尾張上4郡の一角である約5.5km(徒歩1時間15分程度)先の岩倉まで、ほぼ平らです。

1500年代、今の尾張地方は、織田家が、8分割して尾張を治めていました。

北部の尾張上4郡は、葉栗郡、丹羽郡、中島郡、春日井郡。

南部の尾張下4郡は、海東郡、海西郡、愛知郡、知多郡でした。

尾張は、長久手のあたりに山田郡というのがあって尾張9郡とも言われていますが、とりあえず織田家は8郡に権限があって、そこを南北に分けて、北部の岩倉織田氏で上4郡、南部の清洲織田氏で下4郡として協力して治めていたという感じで、境目が何処までだったかというのが、戦国時代の勢力争いや河川の流れの変遷などで、はっきりしません。

この濃尾平野の地域は、網の目のように川がたくさんあったことだけは、中洲だったんだろうなとか歩くと感じられます。バス停に向かうのに、バス停に背を向けて橋を探すとか。

名神高速道路が作られる前は、織田信長が弟と戦った「浮野の戦い(1558年)」の浮野も近く約6.5km(徒歩1時間半程度)なので、水田の先に見渡せたと思います。

浮野にも、首塚があります。人様のお墓と同義なので画像はなしです。

もし、夜戦をしようと川を降ってきたら、舟の松明が見えていたであろうことと、月明かりでも行軍が見えてしまったのではと推測できます。

濃尾平野は、天平6年(734年)の尾張国正税帳によると、古くから米と絹織物がメインの産業だったようです。1200〜1300年代の室町期からは麻、江戸期には綿、明治にはウールとして、撚糸や織物技術が残っています。

現在の青木川の川沿いには、一宮市側に神社になっている九日市場や五日市場など、昔から川を中心とした物流や経済があったことを思わせる地名が残っています。青木川の水量が多いと、地面の方が低い時もあります。

九日市、五日市は、楽市楽座の仕組み誕生後に呼ばれた地名で、元々は、違う呼び方だったかもしれません。

はっきりしませんが、市は開かれていなかったにしても織田家は、勝幡や清洲に行く前から川の物流の仕組みを管理していたのでと思われます。

だから、川の物流と人流をコントロールできる川沿いに、引っ越し続ける理由はあったということです。

そして、川沿に、大規模な建物を作ると、この土地特有の問題が起こってきます。

それは、清洲か勝幡(しょばた)くらいの回で書こうと思います。

文字より、漫画がわかりやすよね!地図も作ってます!!

監修の先生つきで、是非、漫画、描かせてください!

どこまで、正しいのか思い込みじゃないかとか不安なので自論で済まさないためにも、責任のあるようにしたいと思うけど、自論展開で申し訳ありません。